鳥居って何? 〜鳥居の起源〜

鳥居は、神社を1番象徴する建造物と言っていいでしょう。
神社の地図記号が鳥居であることからもそれはわかります。

なぜ、象徴的であるか。 それは、記憶に残りやすいそのシンプル性もひとつの理由ですが、最大の理由は、例外の少なさです。
日本に10万を数える神社がある中で、多様な社殿形式に対して、鳥居をもたない神社がどれだけあるかを考えればわかるでしょう。

そして、より興味深いことは、鳥居というシンプルな形状に類似した建造物が、外国にはほとんど見られないということです。

その点から鳥居は、日本の象徴と言っても過言ではありません。
千本鳥居の伏見稲荷大社が、外国人から強い人気があるのも鳥居が、日本を象徴するシンボル的な役割を果たしていることの証左と言えるでしょう。

日本のシンボルに足るまで普及している鳥居ですが、その起源や名称等に定説をもちません。

その存在理由すら明確に定義されていないものが、これだけ例外なく普及するというのは極めて不思議な事実です。
当記事は、鳥居の謎について再整理を試みたいと思います。

鳥居って何?

Q.鳥居の機能はなんでしょうか?

A.神域と人間が住む俗界を区画する結界。神域への入口となる門。

大きな神社には、参道にいくつかの鳥居をくぐって、社殿へ向かう構造になっており、社殿に近づくほど聖域が深まると言われています。

上記が第一義的機能ですが、現在では、神社の存在や格を示す演出的意味合いが増えてきています。

また、偶像がない神道において、建造物としては、コストが安く簡素であることから寄贈物としてしばしば使われており、それが普及の一因にもなっています。

鳥居の起源

鳥居の起源に、考古学的な定説はありませんが、いくつかある説をご紹介致します。

まず、神社の標準装備として鳥居が現在の形で神社の門としての地位を占めたのは、8世紀頃。
奈良時代のことです。
原初は、木と木を縄で結ぶというものだったと言われています。

常世の長鳴鳥の止まり木説

これは、もっとも主要な説のひとつです。神話から日本独自に発祥したという説です。
氏神信仰からはじまる神社にここまでの特徴的な統一性が生じたことにはなにかしら物語的根拠があったと考えるのが妥当です。
そのような意味では、神話と結びついたこの説は説得力があります。

日本神話「岩戸隠れ」において、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を誘い出すために鳴かせた鶏「常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)」の止まり木を神前に置いたとする説です。
伊勢神宮の神使が、鶏であることもこの説を強化します。

冠木門(かぶきもん)説

冠木門(かぶきもん)・・・上部が、屋根ではなく冠木(貫)である門

日本の他の門から派生したという説です。
類似性からは説得力があり、相互に影響を与え合っている可能性は高いです。
満州には鳥居のような冠木門がしばしば見られます。
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紅箭門(こうぜんもん・ホンサルムン 朝鮮)説

朝鮮半島にみられる門(紅箭門)を起源とする説です。
形状は類似で「神域と人間が住む俗界を区画する」という機能も鳥居とまったく同じです。
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トラナ(インド仏教)説

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牌楼(中国)説

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鳥居の語源

語源についても、考古学的に支配的な定説はありません。
下記のような諸説があります。

◆鳥の止まり木説

起源の「常世の長鳴鳥の止まり木説」に対応する形で、鶏の居場所という意味で鳥居という名称になった。

◆「とおりいる(通り入る)」が転じたとする借字説

◆建築用語「鳥居桁」が神社門に転じたとする説

鳥居桁・・・高欄の横木の最上部 参)鴨居・・・障子の上桁の横木

考察

神社の門が鳥居であることは、
1.常に敷地内に出入りが自由 2.敷地への入場料が存在しない 等の神社の性質をつくるものです。

鳥居は、聖域と俗域を分ける概念的な門ではありますが、物理的な排他性を持たないという意味で、いわゆる門の機能はもっていないのです。

その具体的機能がないという性質は、自由度を高めます。
機能的にはなくてもいいものだけに、神格を高め、演出するという意味ではいくつあってもいいものでもあります。

そのため、帰依の表現として寄贈建造物として活用されたことは想像できます。
構造がシンプルであるため、建築技術の継承も容易で、汎用性が高いことから神社間の移動も可能であったでしょう。

鳥居の普及率は、目を見張るものがあり、異様ですらあります。
十分に納得できる答えは未だに得られず、今後も深く迫っていきたいと思います。

シンプルかつオリジナル というデザイン性に優れたこの建造物が、神社が過去1500年存在し続け、恐らくは、今後1000年も存在し続ける大きな理由であるのかもしれません。

東京から行く伊勢神宮参り アクセス方法教えます。

江戸時代には、人口の10%を超える人が、伊勢神宮を参拝した年もあるというほど伊勢参り(おかげ参り)は、大流行をしていました。

江戸からは、片道15日をかけて行く大旅行であったことを考えるといかに、伊勢神宮が、当時の日本人の心を捉えていたかがわかりますね。

現代は、少し頑張れば、日帰りでの伊勢参りも可能なほど便利になりました。

それでもなかなか行くには不便なイメージがありますよね。

この記事では、東京から伊勢神宮参拝(伊勢参り、お蔭参り)に行く方法をご紹介致します。

マイカーで行く

片道約6時間(470km)かかりますが、マイカーで行くという選択肢もあります。
日帰り旅行ですと運転が体力的にかなりきついという問題はありますが、運転手が複数人いる場合やいろいろと立ち寄りたい場合には最善の方法だと思います。

特に、外宮・内宮以外の別宮や関連寺社(伊雑宮、瀧原宮、月夜見宮、月讀宮、倭姫宮、二見ヶ浦、猿田彦神社、神明神社)を周遊する場合には、電車やバスですと不便です。

ルート
海老名JCT→東名高速道路→御殿場JCT→新東名高速道路→豊田東JCT→伊勢湾岸自動車道→四日市JCT→東名阪自動車道→勢和多気JCT→伊勢自動車道→伊勢西IC

有料高速代は、11,380円(割引前)です。

お時間に余裕がある場合には、富士山本宮浅間大社(東名富士ICより西富士バイパス経由で約20分、新東名新富士ICより西富士バイパス経由で約15分)や椿大神社(東名阪自動車道 鈴鹿インターより5分)等の大社を立ち寄るのもおすすめです。

新幹線と電車で行く伊勢神宮

少人数で安心して行かれる場合には、新幹線と電車がおすすめです。

ただし、料金が高いという点と現地での交通手段を確保しなければならないという難点がありますね。

◆新幹線
東京から新幹線を使って伊勢神宮に行く場合、「名古屋」が伊勢神宮への玄関口になります。

東京→名古屋(約1時間半 10360円)

◆電車
名古屋から電車で伊勢神宮内宮へのアクセスは、JRと近鉄を利用する2通りになります。

□JRの場合
「伊勢市駅」下車となります。

名古屋駅→伊勢市駅(快速1時間40分)

外宮までは700mほど タクシーで3分程度
内宮までは4km タクシーで11分程度の距離  路線バスのご利用が便利です。

□近鉄の場合
「伊勢市駅」「宇治山田駅」「五十鈴川駅」のいずれか下車となります。

名古屋駅→近鉄名古屋駅(徒歩9分)

近鉄名古屋→伊勢市駅 (特急1時間30分 )
近鉄名古屋→宇治山田駅 (特急1時間30分)
近鉄名古屋→五十鈴川駅 (特急1時間35分)

「伊勢市駅」
外宮までは700mほど タクシーで3分程度
内宮までは4km タクシーで11分程度の距離  路線バスのご利用が便利です。

「宇治山田駅」
外宮までは1.2kmほど タクシーで4分程度
内宮までは4.7km タクシーで11分程度の距離  路線バスのご利用が便利です。

「五十鈴川駅」
外宮までは3.4kmほど タクシーで8分程度
内宮までは2.5km タクシーで6分程度の距離  路線バスのご利用が便利です。

高速バスで行く伊勢神宮

意外と知られていないかもしれませんが、東京から伊勢への高速バスが連日運行しております。

夜行バスなので、体力的には少しきついかもしれませんが、価格の安さと朝から行動できる点が利点ですね。
電車と同様、現地での周遊手段は確保する必要があります。

バスタ新宿発 伊勢市駅着

■西武バス(鳥羽便)
21:50発→7:10着 7200円〜
(復路 20:30発→ 6:10着)

■WILLEREXPRESS
23:55発→9:15着 3450円〜
(復路 20:40発→ 5:40)

東京駅発 宇治山田駅着

■あおぞらライナー
22:40→8:10着 6700円
(復路 20:50→6:18着)

バスツアーで行く伊勢神宮

旅行代理店が主催しているバスツアーもございます。

バスツアーは、価格の安さとスポットを周遊してくれるところ そして、ガイド付きであるところ等が利点です。
旅程に自由度が少ないことや日程が限定であること 人数が集まらないことによる不催行等があることがデメリットになります。

クラブツーリズム
2016年6月10日現在、朝発型宿泊プランのみ確認できました。
伊勢神宮と離島のカップリングプランが特徴です。
伊勢神宮&答志島温泉
伊勢神宮&伊勢志摩温泉&英虞湾クルーズ
http://www.club-t.com/special/japan/ise/

H・I・S
2016年6月10日現在、朝発型宿泊プランのみ確認できました。
伊勢神宮&石神さん(神明神社)
伊勢神宮&伊勢湾クルーズ
の2コースが常設です。
http://www.his-j.com/kokunai/kanto/special/ise.htm

オリオンツアー
月3回、夜発日帰りツアーを1コース運行しております。(2016年6月現在)
http://orion-bustabi.com/kanto
旅程(14600円)
①二見興玉神社(約50分)②外宮(約60分)③月読宮(約20分)
④猿田彦神社(約30分)⑤内宮・おはらい町(約5時間)

四季の旅
四季の旅は、東京から伊勢神宮行きの夜発日帰りツアーを常設で4コース運行しております。(2016年6月)

A.伊勢神宮と二見ヶ浦 9800円〜
http://www.shikiclub.co.jp/shikitabi/trip_day/isejingu.html

①二見浦 ②月讀宮 ③外宮 ④内宮  &おはらい町
※オプション 猿田彦神社 (500円)

B伊勢神宮(内宮・外宮・伊雑宮)と石神さん 
http://www.shikiclub.co.jp/shikitabi/trip_day/isejingu_ishigami.html

①外宮 ②伊雑宮 ③神明神社 (石神さんなど)④内宮 &おはらい町
※オプション 猿田彦神社 (500円)

C.伊勢神宮 瀧原宮と内宮・外宮
http://www.shikiclub.co.jp/shikitabi/trip_day/isejingu_takiharanomiya.html

①瀧原宮 ②外宮 ③内宮 &おはらい町
※オプション 猿田彦神社 (500円)

D.伊勢神宮 朔日参り 
http://www.shikiclub.co.jp/shikitabi/trip_day/isejingu_tsuitachi.html
おかげ横丁の赤福本店で、毎月1日のみの限定商品「朔日餅」をゲットできます。

①おはらい町の朔日市を自由散策 ②外宮 ③内宮 &おはらい町
※オプション 猿田彦神社 (500円)

番外編 車と船で行く伊勢神宮

渥美半島の伊良湖から鳥羽までフェリーで渡る方法も人気です。
http://www.isewanferry.co.jp/index.php

自動車乗船 往復8330円〜(大きさによって変わります。)
旅客 大人1名 往復2790円

関連記事

伊勢の御朱印ゴールデンコース
http://power-spots.news/jinja/isegoshuingolden

武田神社

武田信玄を祀る武田氏館跡に創建された社
武田神社の拝殿

概要

武田信玄を祭神とし、躑躅ヶ崎館の跡地(武田氏館跡)に鎮座する神社
日露戦争後の武神祭祀奨励により、創建に至った。

参道の一之鳥居(2014年5月8日撮影)
武田神社

基本情報

◆所在地 山梨県甲府市古府中町2611
◆公式ホームページ http://www.takedajinja.or.jp/
◆社格等
県社・別表神社
◆創建 1919年(大正8年)
◆札所等 –

拝殿の左にある菱和殿(2014年5月8日撮影)
武田神社の菱和殿

祭神

武田信玄

エピソード

躑躅ヶ崎館と武田城下町

当社は、明治期に、戦国時代の武田家居館(躑躅ヶ崎館)跡地に創建された。
躑躅ヶ崎館は、甲斐守護・武田信虎により甲府盆地北縁に築かれ、以来信虎・晴信(信玄)・勝頼三代にわたって武田領国の中心地として機能した。
その周辺には、家臣団が集住し、武田城下町が形成された。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後もしばらくは政治的中心地であったが、豊臣大名時代には甲斐統治は、甲府城にとって替わられ、江戸時代には、破却された。
これにより城下町も南方に移動し、武田城下町は甲府城下町の一部として吸収され、武田氏館跡は「古城」「御屋形跡」と呼称され、武田氏時代を偲ぶ名所のひとつとして旅行者が訪れる程度であった。

明治政府の地域偉人崇拝への方針転換

明治初期の山梨県庁は、山梨県民の武田信玄への追慕を県政の障害と認識し、明治初年には『峡中新聞』においては信玄を悪人とする論説を掲載することも行っていた。
その認識の契機としては、武田時代の遺制とされる大小切税法の廃止に対する蜂起等が挙げられる。

しかし、このころ全国的にも自由民権運動が興隆し、山梨県でも反藤村県政の動きとして民権運動が発生する。
明治政府は、新政府への帰属意識の確立を目的として、地域の偉人(山梨県においては武田信玄)を崇拝する感情を尊重する方針に転換した。

1880年(明治13年)明治天皇の山梨県巡幸が行われ、武田信玄ゆかりの社寺の調査・保存のために保存金を下賜された。

山梨県では県令藤村の相談役でもある第十国立銀行頭取の栗原信近を中心に、民権運動家が霊社建設に賛同し、古城地の公園化と「機山公霊社」建設運動が起こった。
山梨県では古城地の公有地化を進めるが、民権運動家でも依田道長ら巨額の費用を投じた霊社建設に否定的な意見も上がり、躑躅ヶ崎館は県立躑躅ヶ崎公園となり、霊社建設は一時棚上げされた。

武田神社の創建

1899年(明治32年)には山梨県内外の政財界有志により「武田会」が結成され、信玄祭祀神社創建運動が再燃し、その募金運動等に山梨県知事の小野田元熈が賛同した。
日露戦争後には神社に武神・軍神を祀ることが奨励され、軍神と評される武田信玄を祀った神社創建の機運が一層高まった。

1906年(明治39年)には甲府で一府九県連合共進会が開催され、この時は山梨県知事・武田千代三郎の夫人を発起人代表として義金が募られた。
1915年(大正4年)、大正天皇の即位記念に武田信玄に従三位が追贈されたのを契機に、1916年(大正5年)には山梨県知事を総裁とする「武田神社奉建会」が設立される。
1919年(大正8年)には社殿が竣工し、信玄の命日にあたる4月12日には初の例祭が行われた。

事跡発掘

信玄親不孝評への対抗

武田信玄は『甲陽軍鑑』に記される父親の信虎を追放した親不孝な人物とする評価が存在していたが、明治国家では「忠孝」が重視されていたため、明治後期に山梨県の郷土史家の間ではそれを覆す信玄の事跡発掘が行われ、明治37年の内藤慶助『武田信玄事跡考』、大正4年の土屋操『甲斐史』など武田氏研究にも影響を与えた。

別格官幣社昇格のための勤皇事跡の発掘
別格官幣社への昇格運動は上杉謙信を祀った上杉神社が指定されていたことへの対抗意識も加え、郷土史家は内務省が昇格条件に求める勤皇事跡の発掘に務めた。

例大祭の変遷

4月12日に行われていた例大祭には神輿の後に地元相川住民による武田二十四将を模した騎馬行列が行われており、1947年(昭和22年)からは甲府市と市商工会議所、観光協会の共同開催で桜祭りが開催され、最終日を例祭に合わせていた。戦後には観光業振興により武田信玄が歴史的観光資源として着目され、1966年(昭和41年)からは甲府信玄祭りが開催され、以来は行政主導による都市祭礼としての信玄公祭りが4月12日前の土日に開催されており、地域住民による例祭と共存している。

宝物殿と重要文化財

境内にある宝物殿(入場は有料)には、太刀「吉岡一文字」や信玄公の軍扇、武田二十四将図等、武田家ゆかりの貴重な品々が収められている。

重要文化財(国指定)
太刀 銘一(吉岡一文字)
三条家に伝来した太刀。1880年(明治13年)6月に明治天皇の山梨県巡幸が行われ、明治天皇に供奉して来県した太政大臣の三条実美が、信玄正室の三条夫人が三条家の出自であることに知り、寄進したもの。
吉岡一文字

河口浅間神社

河口湖越しに富士山と対峙する浅間神社
河口浅間神社の拝殿

概要

 富士山の北麓で御坂山地を背負い、河口湖越しに富士山と対峙して鎮座する。
世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産

随身門
河口浅間神社の随身門

基本情報

◆所在地 山梨県南都留郡富士河口湖町河口1
◆公式ホームページ http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/7137
◆社格等
式内社(名神大)論社
旧県社
◆創建 貞観7年(865年)
◆札所等 –

鳥居
河口浅間神社の鳥居

祭神

浅間大神 (あさまおおかみ)
木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を指すとする。
なお社記によれば、天津彦彦火瓊瓊杵尊(木花開耶姫命の夫神)・大山祇神(木花開耶姫命の父神)の両神を相殿に祀るという伝えもある。

境内入り口
河口浅間神社の境内入口

エピソード

創建

貞観6年(864年)に始まった富士山の噴火鎮祭のため、貞観7年(865年)に浅間神を祀ったのが始まりといわれる。
笛吹市の浅間神社とともに、『延喜式神名帳』に名神大社として記載される「甲斐国八代郡 浅間神社」の論社として論じられてきた。

河口浅間神社本殿

発展と衰退

当社を中心とする地域は、富士登拝の大衆化と共に御師集落として発展した。
しかし江戸時代になると、富士講の流行や吉田御師の発展により徐々に衰退していき、19世紀には衰退の一途を辿った。

美麗石(ヒイラ石)

拝殿前には「美麗石(ヒイラ石)」と呼ばれる石祠が立つ。これは『日本三代実録』にいう、浅間明神を初めて祀った古代祭祀の石閣と伝わる。
拝殿前の美麗石

七本杉

社殿周辺には「七本杉」と呼ばれる7本のスギの神木が立つ。これらはいずれも樹齢1,200年を数え、山梨県指定天然記念物に指定されている。七本杉には、それぞれ「御爾(みしるし)」「産射(うぶや)」「齢鶴(れいかく)」「神綿(しんめん)」「父母(かづいろ)」「天壌(てんじょう)」の名が付けられている(「父母」は2本で1つの名)。

また参道の杉並木のほか、栃の木、樅の木は、それぞれ富士河口湖町指定天然記念物に指定されている。
七本杉「天壌」
河口浅間神社の七本杉(天壌)

七本杉「父母」
河口浅間神社の七本杉(父母)

七本杉「産射」「齢鶴」「神綿」(右から)
河口浅間神社の七本杉

母ノ白滝と母の白滝神社

本社から三つ峠に至るまでの間にある滝。河口地区にて宿泊した道者が禊を行った場所であり、河口浅間神社の社有地である。
滝のそばには母の白滝神社(祭神:栲幡千々姫命 (たくはたちちひめのみこと) – 木花開耶姫命の姑神)が鎮座する。
母ノ白滝と母の白滝神社

波多志社

祭神:伴真貞 – 『日本三代実録』にもある当社創祀者
参道中央に鎮座する。
参道中央に鎮座する波多志社

産屋ヶ崎神社 (うぶやがさき-)

鎮座地:河口湖に突き出した岬上
祭神
彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと) – 木花開耶姫命の御子神
豊玉姫命 (とよたまひめのみこと) – 彦火火出見尊の妃
産屋ヶ崎神社

関連記事

富士山麓 浅間神社8社めぐり
http://power-spots.news/jinja/sengenhassha

富士信仰の拠点である浅間神社のまとめ
http://power-spots.news/jinja/fuji-sengen

春日大社

藤原氏の氏神を祀る春日神社総本社
春日大社

概要

中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀る全国に約1000社ある春日神社の総本社。
武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされる逸話から鹿が神使である。
例祭である春日祭は、三勅祭の一つ。世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産。

基本情報

◆所在地 奈良県奈良市春日野町160
◆公式ホームページ http://www.kasugataisha.or.jp/
◆社格等
式内社(名神大)
二十二社(上七社)
旧官幣大社
勅祭社
別表神社
◆創建 神護景雲2年(768年)
◆札所等 神仏霊場巡拝の道第15番(奈良第2番)

祭神

主祭神は以下の4柱。総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神である。
武甕槌命 – 藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)
経津主命 – 同上(下総国香取の神)
天児屋根命 – 藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
比売神 – 天児屋根命の妻(同上)

エピソード

創建

社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。
また、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする説もある。

興福寺との関係

藤原氏の氏神・氏寺の関係から興福寺との関係が深く、神仏習合が進んだ。
藤原冬嗣が興福寺南円堂を建立した際、その本尊の不空絹索観音が、当社の祭神・武甕槌命の本地仏とされ、春日大社と興福寺は一体化していった。
11世紀末から興福寺衆徒らによる強訴がたびたび行われるようになったが、その手段として、春日大社の神霊を移した榊の木(神木)を奉じて上洛する「神木動座」があった。

本殿

本殿は春日造。
第一殿に武甕槌命、第二殿に経津主命、第三殿に天児屋根命、第四殿に比売神が祀られる。
国宝に指定。

本殿(背面) 手前から第四殿、第三殿、第二殿、第一殿
春日大社の本殿

式年造替

式年造替は、神の鎮座する神殿や御神宝などを造り替え、御修繕を行うことによって、御神威のさらに若々しく力強いご発揚を願う、日本人固有の信仰に基づいて行われるもの。
当社では創建以来ほぼ20年毎ご奉仕されてきました。
今次造替は平成19年の一ノ鳥居より始まり、平成28年の御本社御本殿の正遷宮をもって完了する予定です。

影向の松

春日大社一の鳥居をくぐってすぐの、参道右側に生育しているクロマツ。
延慶2年(1309年)の春日権現験記にも記された古い巨木であったが、1995年(平成7年)に枯れたため、現在は巨大な切り株の横に後継樹の若木が植えられている。
春日大社の鳥居をくぐってすぐの影向の松