武田神社

武田信玄を祀る武田氏館跡に創建された社
武田神社の拝殿

概要

武田信玄を祭神とし、躑躅ヶ崎館の跡地(武田氏館跡)に鎮座する神社
日露戦争後の武神祭祀奨励により、創建に至った。

参道の一之鳥居(2014年5月8日撮影)
武田神社

基本情報

◆所在地 山梨県甲府市古府中町2611
◆公式ホームページ http://www.takedajinja.or.jp/
◆社格等
県社・別表神社
◆創建 1919年(大正8年)
◆札所等 –

拝殿の左にある菱和殿(2014年5月8日撮影)
武田神社の菱和殿

祭神

武田信玄

エピソード

躑躅ヶ崎館と武田城下町

当社は、明治期に、戦国時代の武田家居館(躑躅ヶ崎館)跡地に創建された。
躑躅ヶ崎館は、甲斐守護・武田信虎により甲府盆地北縁に築かれ、以来信虎・晴信(信玄)・勝頼三代にわたって武田領国の中心地として機能した。
その周辺には、家臣団が集住し、武田城下町が形成された。
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後もしばらくは政治的中心地であったが、豊臣大名時代には甲斐統治は、甲府城にとって替わられ、江戸時代には、破却された。
これにより城下町も南方に移動し、武田城下町は甲府城下町の一部として吸収され、武田氏館跡は「古城」「御屋形跡」と呼称され、武田氏時代を偲ぶ名所のひとつとして旅行者が訪れる程度であった。

明治政府の地域偉人崇拝への方針転換

明治初期の山梨県庁は、山梨県民の武田信玄への追慕を県政の障害と認識し、明治初年には『峡中新聞』においては信玄を悪人とする論説を掲載することも行っていた。
その認識の契機としては、武田時代の遺制とされる大小切税法の廃止に対する蜂起等が挙げられる。

しかし、このころ全国的にも自由民権運動が興隆し、山梨県でも反藤村県政の動きとして民権運動が発生する。
明治政府は、新政府への帰属意識の確立を目的として、地域の偉人(山梨県においては武田信玄)を崇拝する感情を尊重する方針に転換した。

1880年(明治13年)明治天皇の山梨県巡幸が行われ、武田信玄ゆかりの社寺の調査・保存のために保存金を下賜された。

山梨県では県令藤村の相談役でもある第十国立銀行頭取の栗原信近を中心に、民権運動家が霊社建設に賛同し、古城地の公園化と「機山公霊社」建設運動が起こった。
山梨県では古城地の公有地化を進めるが、民権運動家でも依田道長ら巨額の費用を投じた霊社建設に否定的な意見も上がり、躑躅ヶ崎館は県立躑躅ヶ崎公園となり、霊社建設は一時棚上げされた。

武田神社の創建

1899年(明治32年)には山梨県内外の政財界有志により「武田会」が結成され、信玄祭祀神社創建運動が再燃し、その募金運動等に山梨県知事の小野田元熈が賛同した。
日露戦争後には神社に武神・軍神を祀ることが奨励され、軍神と評される武田信玄を祀った神社創建の機運が一層高まった。

1906年(明治39年)には甲府で一府九県連合共進会が開催され、この時は山梨県知事・武田千代三郎の夫人を発起人代表として義金が募られた。
1915年(大正4年)、大正天皇の即位記念に武田信玄に従三位が追贈されたのを契機に、1916年(大正5年)には山梨県知事を総裁とする「武田神社奉建会」が設立される。
1919年(大正8年)には社殿が竣工し、信玄の命日にあたる4月12日には初の例祭が行われた。

事跡発掘

信玄親不孝評への対抗

武田信玄は『甲陽軍鑑』に記される父親の信虎を追放した親不孝な人物とする評価が存在していたが、明治国家では「忠孝」が重視されていたため、明治後期に山梨県の郷土史家の間ではそれを覆す信玄の事跡発掘が行われ、明治37年の内藤慶助『武田信玄事跡考』、大正4年の土屋操『甲斐史』など武田氏研究にも影響を与えた。

別格官幣社昇格のための勤皇事跡の発掘
別格官幣社への昇格運動は上杉謙信を祀った上杉神社が指定されていたことへの対抗意識も加え、郷土史家は内務省が昇格条件に求める勤皇事跡の発掘に務めた。

例大祭の変遷

4月12日に行われていた例大祭には神輿の後に地元相川住民による武田二十四将を模した騎馬行列が行われており、1947年(昭和22年)からは甲府市と市商工会議所、観光協会の共同開催で桜祭りが開催され、最終日を例祭に合わせていた。戦後には観光業振興により武田信玄が歴史的観光資源として着目され、1966年(昭和41年)からは甲府信玄祭りが開催され、以来は行政主導による都市祭礼としての信玄公祭りが4月12日前の土日に開催されており、地域住民による例祭と共存している。

宝物殿と重要文化財

境内にある宝物殿(入場は有料)には、太刀「吉岡一文字」や信玄公の軍扇、武田二十四将図等、武田家ゆかりの貴重な品々が収められている。

重要文化財(国指定)
太刀 銘一(吉岡一文字)
三条家に伝来した太刀。1880年(明治13年)6月に明治天皇の山梨県巡幸が行われ、明治天皇に供奉して来県した太政大臣の三条実美が、信玄正室の三条夫人が三条家の出自であることに知り、寄進したもの。
吉岡一文字

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