神話「国譲り」と東国三社(鹿島神宮・香取神宮・息栖神社)について

江戸時代には、伊勢参りに次ぐ人気を誇ったと言われる東国三社(鹿島神宮・香取神宮・息栖神社)参り。鹿島・香取両神宮は、古代より「武人の聖地」として崇められていました。
防人(さきもり)が、出征前に鹿島神宮で武運長久を願ったというのも有名なお話です。
そして、現在もなお「武道家の聖地」として崇拝されています。

では、はるか東の地にあった鹿島・香取の両神宮が、なぜそのような別格待遇を受けているのか。
この記事では、そのひとつの由来となる神話【国譲り】について取り上げたいと思います。

東国三社の祭神

東国三社(鹿島神宮・香取神宮・息栖神社)は、以下の祭神を祀っています。

鹿島神宮

主祭神:タケミカヅチ(武甕槌/建御雷)

香取神宮

主祭神:フツヌシ(経津主)
タケミカヅチとともに、国譲りで活躍したと言われる。

息栖神社

主祭神:クナドノカミ(久那戸神、岐神)
社伝では、鹿島神・香取神による葦原中国平定において、東国への先導にあたった神という。

相殿神:天鳥船命(あめのとりふねのみこと)
「古事記」では建御雷神の副神として葦原中国平定に赴いたと記される。

相殿神:住吉三神(すみよしさんしん)
上筒男神、中筒男神、底筒男神の3柱の総称。

タケミカヅチ(武甕槌/建御雷)にまつわるエピソード

鹿島神宮の主祭神であるタケミカヅチにまつわるエピソードの概要を記します。

誕生時のエピソード

タケミカヅチの誕生は、衝撃的なものでした。
母(イザナミ)が、火の神カグツチ(軻遇突智)を産むときに、火傷を負い絶命。それに、激怒した父(イザナギ)が、カグツチの首を切り落としました。
そのときに、剣についた血が岩に飛び散って生まれた3神のうちの1神がタケミカヅチ(もう1神が、フツヌシ)といわれています。このときから、荒々しい武人としての宿命を背負ったといえるでしょう。

国譲りでの活躍

アマテラスは、大国主が平定に成功した葦原中国(いわゆる人間界)を天上の神々に譲れと迫りました。
そして、息子などの数名の神を派遣しましたが、なかなかうまく行かず、ついに剛腕「タケミカヅチ」が派遣されました。大国主は、息子たちに国譲りの決定を委ねましたが、次男のタケミナカタ(建御名方神)は、「力ずくで奪ってみせよ」とタケミカヅチに戦いを挑んだのです。そこで、タケミカヅチとタケミナカタは力競べを行いますが、結果はタケミカヅチの圧勝で、タケミナカタは命からがら逃げ出しました。こうして「国譲り」&「天孫降臨」は成功を収め、タケミカヅチは大功労者となったのです。

神武東征での神剣授与

イワレビコ(神武天皇)の神武東征に際には、危機を迎えていたイワレビコ(神武天皇)に対して、アマテラスに降臨を求められたタケミカヅチは神剣(フツノミタマ)を授けることを提案。そのおかげでイワレビコ(神武天皇)は、その難局を乗り切りました。

「国譲り」概要

日本神話の「国譲り」(葦原中国平定)をもう少し詳しく。
※「葦原中国」・・・「あしはらのなかつく」と読みます。

天照大御神ら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とし、天孫降臨を宣言します。その前提として、葦原中国を平定している大国主に対して国を譲ってもらう必要がありました。

これは、天孫降臨の前提としての「国譲り」が成立するまでのお話です。

1.天忍穂耳の派遣拒絶

天照大御神は、自らの子である天忍穂耳の葦原中国派遣を試みますが、天忍穂耳は、天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と報告し、派遣を拒絶します。

2.天菩比の大国主への服従

八百万の神々の助言によって「天菩比命(あめのほひ)」を派遣するのがよい、という結論となり、派遣が行われましたが、天菩比命は大国主の家来となり、三年たっても高天原に戻りませんでした。

3.天若日子の大国主の娘との結婚

さらに、八百万の神々の助言によって「天若日子(あめのわかひこ)」を派遣するのがよい、という結論となり、再び派遣が行われましたが、天若日子は大国主の娘の下照比賣(したてるひめ)と結婚し、自分が葦原中国の王になろうとして、八年たっても高天原に戻りませんでした。

4.建御雷の派遣

さらに、八百万の神々の助言によって「建御雷(タケミカヅチ)」を派遣するのがよい、という結論となり、派遣が行われました。天鳥船神(息栖神社 相殿神)も共に派遣されたといわれています。

5.事代主(コトシロヌシ)の服従

タケミカヅチは、大国主に「この国は天津神が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねました。大国主神は、息子の事代主神(コトシロヌシ)に訊ねるよう答え、コトシロヌシは、2つ返事で「承知した」と答えといわれています。

6.建御名方(タケミナカタ)の服従

タケミカヅチが「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子の建御名方神(タケミナカタ)にも訊くよういいました。タケミナカタは「それならば、力競べをしようではないか」とタケミカヅチに戦いを挑みました。結局、勝負はタケミカヅチの圧勝に終わり、タケミカヅチは逃げるタケミナカタを追い詰めました。最終的にタケミナカタは、「国は譲るから殺さないでくれ。」と服従を誓ったといわれています。

7.大国主の国譲り

タケミカヅチは、大国主神に再度訊ねました。大国主神は「二人の息子が従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の百八十神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろう」といいました。その宮殿が、現在の出雲大社です。

このように、「国譲り」はタケミカヅチの大活躍によって実現されました。
タケミカヅチ以前の3名の派遣失敗によって、その偉業はより一層際立つことになります。

これが、タケミカヅチを主祭神とする鹿島神宮やフツヌシを主祭神とする香取神宮が、別格の扱いを受けるひとつの根拠であり、「武人」や「武道家」など、戦う人たちにとっての聖地となり続けている所以です。

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