三峯神社 

三峯神社 独特の信仰体系をもつ関東有数の古社
随身門
三峰神社_随身門

概要

関東有数の古社。
ヤマトタケルが東征の際、イザナギ・イザナミの国造りを偲んで創建。
神仏習合時代は、修験道場として知られ、役小角がはじめて修業をし、空海が十一面観音像を安置したとされる。
狼信仰・三ツ鳥居・熊野修験との関わり等独特の信仰形態をもつ。 秩父神社・宝登山神社とともに秩父三社の一社

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基本情報

◆所在地 埼玉県秩父市三峰298-1
◆公式ホームページ http://www.mitsuminejinja.or.jp/
◆社格等
旧県社
別表神社
◆創建 景行天皇年間
◆札所等 秩父三社

祭神

主祭神
伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)
伊弉册尊 (いざなみのみこと)

配祀神
造化三神 以下三神の総称
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
神産巣日神(かみむすひのかみ)

天照大神 (あまてらすおおかみ)

エピソード

創建

景行天皇の時、日本武尊が東征中、碓氷峠に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登って伊弉諾尊・伊弉册尊の国造りを偲んで創建したという。

社名

景行天皇の東国巡行の際、天皇は社地を囲む白岩山・妙法山・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える。

御眷属(山犬)信仰

三峯狼2

境内各所に、狼像があることからも分かるように、三峰の神使は、山犬(狼)であるとされる。

三峯狼

江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし「お犬さま」として崇めるようになった。
さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになった。

三峯狼3

日光法印が山上の庵室に静座していると、山中どことも知れず狼が群がり来て境内に充ちた。法印は、これを神託と感じて猪鹿・火盗除けとして山犬の神札を貸し出したところ霊験があったとされる。

三峯狼4
三峯狼5

三ツ鳥居

境内入り口に非常に珍しい三ツ鳥居がある。
他に有名な三ツ鳥居としては大神神社のものが知られる(ただし大神神社は直接見る事ができない)。

三峯神社 ミツ鳥居

神乃山水

神乃山水という霊水を飲むことができる。(有料)
三峰山の上に竜神が住むと言い伝えられ、水分神がまつられている「龍洞」という深い井戸の水である。
特に大寒に汲まれた水は「寒の水」といわれ、貴重なものとされている(寒の水を頂くには予約が必要)。

奥宮

本社からは東南東へ1時間ほど山道を登った妙法ケ岳(標高1329m)の山頂に奥宮が鎮座する。
山頂には小さな祠とともに秩父宮登山記念碑がある。また、登山道の途中には両部鳥居がある。

三峯神社 奥社

修験道

伊豆国に流罪になった役小角が三峰山で修業をしたと言われる。

三峰の地名と熊野の地名の類似より、三峰の開山に熊野修験が深くかかわっていることがうかがえる。
熊野には「大雲取・小雲取」があり、三峰山では中心の山を「雲取山」と呼んでいる。

中世以降、日光系の修験道場となって、関東各地の武将の崇敬を受けた。

室町後期以降、聖護院派天台修験の関東総本山とされて隆盛した。
本堂を「観音院高雲寺」と称し、「三峯大権現」と呼ばれた。

空海との関わり

空海が観音像を安置したと縁起には伝えられる。

室町前期の衰退

足利氏を討つために挙兵し敗れた新田義興・義宗らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領が奪われて衰退した。

室町後期の復興

文亀年間(1501年-1504年)に修験者の月観道満がこの廃寺を知り、30数年勧説を続けて天文2年(1533年)に堂舍を再興させ、山主の龍栄が京都の聖護院に窮状を訴えて「大権現」を賜った。

花山院家との関わり

歴代の山主は花山院家の養子となり、寺の僧正になるのを常例としたため、花山院家の紋所の「菖蒲菱(あやめびし)を寺の定紋とした。

三峯講

修験者たちが当社の神得を説いて回り、当社に参詣するための講(三峯講)が関東・東北等を中心として信州など各地に組織された。

神仏分離

明治の神仏分離により寺院を廃して「三峯神社」に改称した。

秩父宮の参拝

大正末期に秩父宮が参拝したことをきっかけに信徒が全国的に増え、講社数が増大した。

筒粥神事

筒粥神事は各地に残る年占の1つである。1月15日に一室に籠もった神職により、宵から15日の暁にかけて行事が行われる。これは、神饌所で炊かれた小豆粥に、36本の葦の筒を漬け、この筒の中に入った粥の量により36種の作物の今年の作柄を占うもので、その結果は印刷され、春先に参拝する信者に分けられる。

ごもっともさま

2月3日の節分追儺祭の神事は「ごもっともさま」とも呼ばれる。豆を「福は内、鬼は外」と唱えた後、後に控えた添人が大声で「ごもっともさま」と唱和し、1メートル余りの棒の先に注連縄を巻き、根元に蜜柑2個を麻縄でくくりつけた陰茎を象った大きな棒を突き出す。五穀豊穣・大漁満足・夫婦円満・開運長寿の願いが込められ、子授けに奇瑞があると言われている。

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鹿島神宮のみどころまとめ

日本有数の由緒正しき神社である鹿島神宮は、東京ドーム15個分(70ヘクタール)に及ぶ広大な敷地にたくさんの見所を要しています。境内は、まるごと、国の史跡に指定されています。特に、奥の方に見所がたくさんありますので、要チェック!本殿にお参りして安心しないようにしてくださいね。

入口周辺のご紹介

まずは、入口付近から追って参りましょう。
地図入口付近
出典:http://kashimajingu.jp/

樹叢

境内の広さは約70ヘクタール。このうち約40ヘクタールは鬱蒼とした樹叢で、県内では随一の常緑照葉樹林です。「鹿島神宮樹叢」として茨城県指定天然記念物に指定されています。広大な森には杉のみならず「シイ」「タブ」「モミ」などの巨樹が生い茂り、その種類は800種以上にも及びます。生育南限と北限の植物が混ざっているのも大きな特徴です。
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出典:http://kashimajingu.jp/

大鳥居

境内入り口にある大鳥居は、4本の杉を用い、高さが10.2メートル、幅が14.6メートルの大きさです。石鳥居ででしたが、平成23年(2011年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により倒壊しました。

これを受けて、神宮境内から杉の巨木4本を伐り出して再建されました。大鳥居は、2本の円柱の上に丸太状の笠木を載せ、貫のみを角形として柱の外に突き出させる等の特徴があり、この形式は「鹿島鳥居」と称されています。用いられた杉の樹齢は、左右の柱が約500年、笠木が約600年、貫が約250年である。柱の土台部分にあたる亀腹石(かめばらいし)には、倒壊した鳥居の石が用いられています。
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出典:http://kashimajingu.jp/

楼門

境内に入ってまず最初に目に入るのは、朱塗りの大変美しい楼門です。日本三大楼門の一つに数えられる楼門は、高さ約13m、重要文化財に指定されています。扁額「鹿島鳥居」は東郷平八郎の書になります。
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出典:http://kashimajingu.jp/

本殿周辺のご紹介

次に、本殿周辺の見所を見ていきましょう。
地図拝殿付近
出典:http://kashimajingu.jp/

宝物殿

所蔵品としては、国宝であり日本最古最大の直刀(金銅黒漆平文拵・附刀唐櫃)をはじめ、梅竹蒔絵鞍(重要文化財)、太刀(銘景安)、古瀬戸狛犬、銅印、木造狛犬、黒漆螺鈿蒔絵台(県指定文化財)等古くから伝わる宝物のみならず、神社に縁のある雪村筆「百馬図」、横山大観筆「鹿島洋朝瞰図」、軍艦「鹿島」パネルも展示されています。

なお、直刀の実物大レプリカも展示していますので、実際に手を触れて重量や長さを体感することができます。

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出典:http://kashimajingu.jp/

摂社 高房社

武甕槌大神の葦原中国平定に最後まで服従しなかった天香香背男を抑えるのに大きく貢献した建葉槌神が御祭神です。古くから、まず当社を参拝してから本宮を参拝する習わしがあります。
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本殿・石の間・幣殿・拝殿

本殿・石の間・幣殿・拝殿の4棟からなる社殿は、元和5年(1619)、徳川2代将軍の秀忠公が寄進したもので、重要文化財に指定されています。本殿は三間社流造、向拝一間で檜皮葺で、御祭神の武甕槌大神(タケミカヅチ)をお祀りしています。北面しているのが珍しい特徴です(通常は、南向きもしくは東向き)。
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御神木

鹿島神宮の森で最も古く、最も大きい木がこのご神木です。樹齢は約1,300年を数えます。樹高43メートル・根回り12メートル
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鏡石

本殿裏にある直径80cmほどの円形の石です。要石に比べて無名に近い石ですが、本殿と御神木を結ぶ一直線上にあり、磐境の一種との見方もあります。
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奥宮周辺のご紹介

次に、鹿島神宮をもっとも特徴づける奥宮周辺の見所を紹介して参りましょう。
地図奥
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奥参道

奥参道に向かって300m程伸びる奥参道は鬱蒼とした巨木に覆われ、荘厳な雰囲気を醸し出しています。
5月1日には流鏑馬(やぶさめ)神事が執り行われます。
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出典:http://kashimajingu.jp/

鹿園

鹿島神宮の御祭神をお遷しして奈良の春日大社を創建する際、鹿が運び手を担ったことから、鹿島神宮では鹿が神鹿として大切にされています。
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さざれ石

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奥宮

現在の社殿は、慶長10年(1605)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものを、その14年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷してきたものです。タケミカヅチの荒霊が祀られています。森に囲まれた荘厳な雰囲気は必見です。
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要石 

鹿島神宮の「要石」は凹型、香取神宮は凸型をしており、それぞれ地震を起こす大鯰の頭と尾を押さえていると古くから伝えられており、地震の守り神として信仰されています。
水戸の徳川光圀公がどこまで深く埋まっているか確かめようと7日7晩にわたって掘らせたものの、いつまで経っても辿り着くことができなかったばかりか、怪我人が続出したために掘ることを諦めた、という話が黄門仁徳録に記されています。
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御手洗池

1日に40万リットル以上の湧水があり、水底が一面見渡せるほど澄みわたった池です。昔は参拝する前にここで禊(みそぎ)をしました。現在では、年始に200人もの人々が大寒禊を行います。この池に大人が入っても子供が入ってもその水深は乳を越えないといわれ、「鹿島七不思議」の1つに数えられています。
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出典:http://kashimajingu.jp/

境内外のご紹介

水上鳥居

鹿島神宮の一の鳥居は古くは東西南北に4基ありましたが、現在は東西南の3基となっています。西の一之鳥居の建つ大船津は、古来より水運による経済や文化の要衝であると同時に、鹿島神宮参拝の玄関口とされ、その景観が親しまれてきました。現在の鳥居は平成25年6月に竣工したもので、川底からの高さ18.5メートル、幅22.5メートルで、水上鳥居としては、日本最大級の規模を誇っています。
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出典:http://kashimajingu.jp/

富士山-信仰の対象と芸術の源泉めぐり

富士山は、古代より現代に至るまで、日本人の心の拠り所となり崇拝の対象となっています。
どこから見ても美しくどこよりも高いその山容は、広範囲の人々にとって心羨望の対象であり、時に火山としての富士は、畏怖の対象でもありました。羨望・畏怖両面において圧倒的なカリスマ性を発揮し、霊山として祭祀の対象となっていったのです。

そんな古来より続く富士山をめぐる人々の心と文化のあり様が、2013年 世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として登録されました。当記事では、世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産を確認したいと思います。

世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の意義

文化庁のホームページには、世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」について以下のように意義を説明しています。

富士山は,標高3,776mの極めて秀麗な山容を持つ円錐成層火山で,南面の裾野は駿河湾の海浜にまで及び,山体の海面からの実質的な高さは世界的にも有数である。
古くから噴火を繰り返したことから,霊山として多くの人々に畏敬され,日本を代表し象徴する「名山」として親しまれてきた。
山を遙拝する山麓に社殿が建てられ,後に富士山本宮浅間大社や北口本宮浅間神社が成立しました。
平安時代から中世にかけては修験の道場として繁栄したが,近世には江戸とその近郊に富士講が組織され,多くの民衆が富士禅定を目的として大規模な登拝活動を展開しました。
このような日本独特の山岳民衆信仰に基づく登山の様式は現在でも命脈を保っており,特に夏季を中心として訪れる多くの登山客とともに,富士登山の特徴をなしています。
また,『一遍聖絵』をはじめ,葛飾北斎による『富嶽三十六景』などの多くの絵画作品に描かれたほか,『万葉集』や『古今和歌集』などにも富士山を詠った多くの和歌が残されています。

出典:http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/sekai_isan/ichiran/fujisan.html

このように,富士山は一国の文化の基層を成す「名山」として世界的に著名であり,日本の最高峰を誇る秀麗な成層火山であるのみならず,信仰の対象と芸術の源泉として,また,文学の諸活動に関連する文化的景観として世界的な意義を持つことから,顕著な普遍的価値を持つと評価されました。

「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産

富士山域

山頂の信仰遺跡群,大宮・村山口登山道,須山口登山道,須走口登山道,吉田口登山道,北口本宮冨士浅間神社,西湖,精進湖,本栖湖
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出典:http://www.mt-fuji.gr.jp/

富士山本宮浅間大社

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出典:wikipedia

山宮浅間神社

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出典:wikipedia

村山浅間神社

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須山浅間神社

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冨士浅間神社(須走浅間神社)

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河口浅間神社

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冨士御室浅間神社

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御師住宅(旧外川家住宅・小佐野家住宅)

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山中湖

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河口湖

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出典:wikipedia

忍野八海

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船津胎内樹型・吉田胎内樹型

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出典:http://www.mt-fuji.gr.jp/

人穴富士講遺跡

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出典:wikipedia

白糸ノ滝

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三保松原

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出典:wikipedia

富士信仰の拠点である浅間神社のまとめ

富士山は、古代より現代に至るまで、崇拝の対象となっています。どこから見ても美しくどこよりも高いその山容は、広範囲の人々にとって心の拠り所となる羨望の対象でした。
同時に、富士の噴火の歴史は、畏怖の対象でもありました。羨望・畏怖両面において圧倒的なカリスマ性を発揮し、霊山として祭祀の対象となっていったのです。

その富士山信仰の拠点となったのが、現在も関東中心に1300存在する浅間神社です。当記事は、富士山信仰の中心に位置する浅間神社について記述します。

富士山と日本神話

ほとんどの浅間神社は、日本神話に登場する木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)を主祭神として祀っています。富士山を神格化した浅間大神をコノハナノサクヤヒメと同神としているのです。
その理由は、大きく分けて2つあります。

1.コノハナノサクヤヒメは、日本神話中もっとも美しい女神といわれています。

富士の美しい山容と重ねたと見ることができます。
※ちなみに、姉イワナガヒメは、醜い女性の象徴として登場します。

2.コノハナノサクヤヒメには、火中で出産をしたというすさまじいエピソードがあります。

天孫ニニギと結婚するのですが、一晩で懐妊したことを不信に思ったニニギの疑いを晴らすため、火中で出産しました。(神の子であれば、火中で産んでも死なないということ)そのエピソードが、火山としての富士と重なったものと考えられます。

そのため、浅間神社は、富士を眺め拝む山宮 湖沼等が水辺があり鎮火を祈る里宮という二対構造になっていることが多いのが特徴です。山宮をつくれない多くの浅間神社も境内に富士塚を築きました。

浅間神社のルーツは駿河(静岡)なのか甲斐(山梨)なのか?

現在も尚、駿河(静岡県)と甲斐(山梨県)は、富士の帰属をめぐって争っているように思えますが、浅間信仰に関していえば、そのルーツは駿河に軍配が上がります。

駿河の富士山本宮浅間大社(富士宮市)は、9世紀初め(806年)には、現在地に鎮座し、甲斐の浅間神社は864年の富士山の貞観大噴火を受けて、新たに祀ったものとされています。

そのため、浅間神社の総本宮は富士山本宮浅間大社(富士宮市)とされ、富士山の8合目以上は当社の境内地とされています。
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浅間神社の論社

そのときに新たに祀られた甲斐の浅間神社が、現在のどの神社に当たるのかについては明確な合意がありませんが、下記三社のいずれかとされています。このように、過去の文献記録上の神社か否かについて議論が分かれているものを論社といいます。

浅間神社(笛吹市)

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河口浅間神社(南都留郡富士河口湖町)

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一宮浅間神社(西八代郡市川三郷町)

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社格高い浅間神社について

1300社もある浅間神社の中でも、高い社格を有する浅間神社をご紹介します。やはり、富士山の登山口をもつ旧駿河国(静岡県)と旧甲斐国(山梨県)に集中しています。

静岡県

富士山本宮浅間大社(富士宮市)

浅間神社の総本宮。富士山8合目以上は当社境内地で、山頂には奥宮が鎮座する。
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静岡浅間神社(静岡市葵区)

神部神社・浅間神社(富士新宮)・大歳御祖神社の総称。
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富知六所淺間神社(富士市)

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山梨県

浅間神社(笛吹市)

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河口浅間神社(南都留郡富士河口湖町)

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一宮浅間神社(西八代郡市川三郷町高田)

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冨士御室浅間神社(南都留郡富士河口湖町)

富士山二合目に設けられたが、登山口が五合目になったことで衰退、本殿は麓の里宮に移築された。
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小室浅間神社(富士吉田市)

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北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市)

前身は諏訪神社。吉田登山口の拠点として栄えた。
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鹿島神宮の国宝「韴霊剣」に纏わる話

戦う男達の聖地である鹿島神宮には、国宝である刀剣が納められています。

日本最古・最大の直刀である通称「韴霊剣」は、神話中においても重要な位置を占める刀剣です。

国宝

直刀・黒漆平文大刀拵(ちょくとう・くろうるしひょうもんたちごしらえ) (附 刀唐櫃)(工芸品)

通称「韴霊剣」。昭和30年6月22日指定[95]。 
名称 直刀黒漆平文大刀拵(附刀唐櫃1口)
時代 奈良時代~平安時代
寸法 寸法:全長271cm 刀身223.4cm 反り0.7cm 元身幅5.1cm 先幅3.1cm 茎長36.8cm
説明 材質:鉄製 鹿島神宮には古い歴史と格式を物語る多くの宝物があります。そのうちの一つが日本で最古最大の「韴霊剣」の名を伝える直刀です。 『常陸国風土記』には、慶雲元年(704)に鹿島の砂鉄で剣を造ったと記されています。
大刀国宝 黒漆平文
出典:http://kashimashi.info/

「韴霊剣」は、鹿島神宮の境内にある宝物館に納められています。
宝物館

三種の神器のひとつが草薙の剣であるように、刀剣は、鏡とともに、霊性を表す宝物として数々の伝説を残してきました。

日本神話の中で、草薙の剣とともに、重要な位置を占める刀剣と言えば、鹿島神宮の祭神であるタケミカヅチのもつ布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ 通称「韴霊剣」)でしょう。

布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)は、日本神話「国譲り」においてタケミカヅチが、葦原中国(あしはらのなかつくに)を制圧するために力を発揮し
神武東征の際、危機に陥ったイワレビコ(神武天皇)を助けるために、タケミカヅチが、進呈し、その霊力によって難局を乗り切ったということが言い伝えられています。

布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)のその後は、神武天皇即位後に宮中に祀られ、のち崇神天皇の御世に石上神宮(奈良県天理市)に遷され祀られたとされたということになっています。

布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)は、タケミカヅチの手元には、戻ってこなかったという。

つまり、鹿島神宮に納められている「韴霊剣」は、二代目(複製)だというのが定説になっています。(鹿島神宮は、複製であることを否定しています。)

石上神宮(奈良県天理市) 
布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)をご神体とする布都御魂大神 (ふつのみたまのおおかみ)を祀っています。
石上神宮

ちなみに、もうひとつの神剣 天叢雲剣(草薙の剣)は、熱田神宮に納められています。
熱田神宮もまた天叢雲剣(草薙の剣)をご神体とする神社です。

熱田神宮
熱田神宮
出典:wikipededia

草薙の剣
草薙の剣

参)草薙の剣
スサノオが、ヤマタノオロチを倒したときに尾から出てきた大刀。
スサノオは、アマテラスに献上し、これが、天孫降臨のときの三種の神器のひとつとなる。
皇居→伊勢神宮へと場所を移すが、東征時に、ヤマトヒメからヤマトタケルへ手渡された。
東征後、ヤマトタケルは、妻であるミヤズヒメに当剣を預け、戦いに向かう帰りに亡くなってしまった。
その後、ミヤズヒメが剣を祀るために建てたのが、熱田神宮だという。

天智天皇の時代(668年)、新羅人による盗難にあい、一時的に宮中で保管された。天武天皇の時代、天武天皇が病に倒れると、占いにより神剣の祟りだという事で再び熱田神宮へ戻された。
戦災を逃れるため、1945年8月21日から同年9月19日までの間、飛騨一宮水無神社に遷座した。