初詣来場数ランキング(千葉編)

初詣とは?

初詣は、大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に籠る「年籠もり」の習慣から始まりました。
やがて、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれました。
江戸時代までの「元日詣」は、氏神もしくは恵方の社寺への参詣が基本で、現在のように有名な寺社に参詣することが一般化したのは、明治中期以降のことです。
また、寺社への参拝のために、鉄道が引かれるなど(成田山新勝寺が典型)交通網の発達は、有名寺社への初詣参拝を飛躍的に押し進める結果となりました。

初詣の参拝者数が意味するもの

ほとんどすべての寺社が、初詣を行事化していますので、初詣の人手は、寺社(パワースポット)の一般的な人気を図る上で、非常にわかりやすい指標です。
もちろん寺格・社格を図る指標にもなりえますが、交通アクセスやキャパシティ(収容人数)も人手に強い影響を与えますので、アクセスが悪く、来場数は多くないけど由緒正しき寺社が多くあることも忘れないでください。

初詣の参拝者数値について

多くの寺社は、各々初詣の人手を発表していますが、比較的多めに発表する傾向があるため、あまり信用はできません。

2009年までは、警察が、初詣の来場数を発表していました。
これもどこまで正確かは不明ですが、中立的な数字として採用したいと思います。

千葉の初詣参拝者数ランキング

千葉の初詣参拝者数ランキングの傾向

「成田山新勝寺」の圧倒的一強

千葉の初詣参拝者数ランキング

千葉
1位 成田山 新勝寺 309万人
2位 千葉神社 63万人
3位 妙泉寺 60万人
4位 香取神宮 50万人
5位 大本山中山法華経寺 35万人
6位 稲毛浅間神社 30万人
7位 櫻木神社 12万人
8位 姉崎神社 3万人

千葉の初詣参拝者数ランキング寺社紹介

1位 成田山 新勝寺 309万人

全国有数の参詣者を誇る不動明王信仰の寺院
成田山

2位 千葉神社 63万人

「妙見信仰」の中心的神社
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3位 妙泉寺 60万人

関東厄よけ三不動のひとつ
妙泉寺

4位 香取神宮 50万人

四方拝で今上天皇が拝礼する格式ある社
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5位 大本山中山法華経寺 35万人

国宝である日蓮聖人の御真筆がある日蓮宗大本山
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6位 稲毛浅間神社 30万人

千葉県の富士信仰の中心
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7位 櫻木神社 12万人

藤原の鎌足の末裔が創建した桜の木をご神体とする社
桜木神社

8位 姉崎神社 3万人

日本武尊が風の神を祀ったことが起源とされる社
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北口本宮冨士浅間神社

武田信玄による富士権現造営を起源とする富士講の聖地
北口本宮冨士浅間神社

概要

吉田口(北口)登山道に位置し、富士講の聖地として栄えた社。
かつては、諏訪神社であったが、武田信玄の富士権現造営から浅間信仰に転じたと考えられている。
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基本情報

◆所在地 山梨県富士吉田市上吉田5558
◆公式ホームページ http://www.sengenjinja.jp/
◆社格等
旧県社
別表神社
◆創建 延暦7年(788年)
◆札所等 –

祭神

木花開耶姫命
彦火瓊瓊杵命 – 夫神
大山祇神 – 父神

エピソード

創建

社伝によると、
景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊ご東征の際に、当地「大塚丘」にお立ち寄りになられ、そこから富士の神霊を親しく仰ぎ拝され「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と仰せになったことから大鳥居が建てられ、浅間大神と日本武尊をお祀りし、当社の創建となりました。

天応元年(781)、富士山の噴火があり、延暦7年(788年)に、甲斐国主の紀豊庭朝臣が、大塚丘の北方に社殿を建立しました。
これが現在社殿のある地で、ここに浅間大神をおうつしし、大塚丘には日本武尊をお祀りしました。

諏訪神社

社伝は、上記のような創建と伝えるが、当初は、諏訪神社であったと考えられている。
富士山神事に関わる案件に対しても、諏訪禰宜に宛てがわれていることが記述されている。

武田信玄と富士権現

『甲斐国志』によると永禄4年(1561年)3月2日に武田信玄が富士権現を造営したとある。
富士信仰・浅間信仰のはじめであり、北口本宮冨士浅間神社の元になるものであるとされている。
永禄4年(1561)に武田信玄が再建した社殿が現存する中では最も古く、「東宮本殿」として現本殿の東側にある。

東宮本殿
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富士講

古代、富士山に人が入ることは禁忌だった。よって当地は、ご神体の富士山を遥かに拝み祭祀を行う場であった。
大宝元年(701)に修験の祖「役小角」がはじめて登山したと伝えられ、平安時代には、「御山に登ること即ち祈り」とする「登拝」によって、人々は山頂を目指すようになった。

富士講の開祖と仰がれる藤原角行師とその弟子たちにより「富士講」は、一般にも広く普及するようになった。
ちなみに、藤原角行師は、1577年にはじめて富士登山をしたとされる。
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村上光清による再興

一時荒廃していたが、享保年間になって、藤原角行師の6世の弟子であった村上光清が私財を投げ打って境内社殿の大造営を行い、富士講の参詣者を集めた。
そのため、江戸時代には富士講が流行し、「江戸の八百八町に八百八講あり」といわれるほどに繁栄し強大になった。
当社は富士登山道の吉田口の起点にあたるため、周辺には御師の宿坊が百件近く立ち並んだこともある。

現存する社殿と境内構成のほとんどはこの時に定まり、廃仏毀釈により損失しつつも噴火の被害は受けずに、現在もなお当時のままの荘厳な趣を伝えている。

拝殿
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西宮本殿
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御神木

拝殿の前の両脇には樹齢千年の「富士太郎杉」「富士夫婦檜」の名を持つ大きな御神木がある。

「富士太郎杉」
富士太郎杉

「富士夫婦檜」
富士夫婦ひのき

小室浅間神社との関係

同じ富士吉田市下吉田にある小室浅間神社に対して「上浅間」と呼ばれる事があるが、直接的な関係は無い。富士吉田地域に於いて、この神社が富士講御師に依る対外的な信仰を集め、下吉田の小室浅間は農耕信仰を中心として地元民の生活に根差した文化があった。

小室浅間神社
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富士山本宮浅間大社

富士山本宮浅間大社

東口本宮冨士浅間神社(須走浅間神社) 

東口(須走口)登山道の本宮
東口本宮浅間神社

概要

富士山東(須走)口登山道の起点に鎮座。
正式名称は冨士浅間神社で、須走浅間神社(すばしりせんげんじんじゃ)とも称される。
世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産

随神門
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基本情報

◆所在地 静岡県駿東郡小山町須走126番地
◆公式ホームページ http://www.higashiguchi-fujisengenjinja.or.jp/index.html
◆社格等
旧県社
◆創建 大同2年(807年)
◆札所等 –

祭神

木花咲耶姫命
大己貴命
彦火火出見命

エピソード

創建

平安時代初頭(802年)、富士山東麓が噴火をしたため、須走に斎場を設け、「鎮火祭」を行った。
それにより噴火が収まったため、807年に鎮火祭の跡地に、社殿を造営した。

交通の要所

江戸時代には東口登山道=須走口登山道の本宮として、駿河国と甲斐国を結ぶ交通の要所であった須走村(現・駿東郡小山町須走)の宿場町とともに栄えた。

御師

浅間神社神主の下に編成された須走村の御師は小田原藩及び京都の吉田家の庇護を受け、その活動は関東一円に広がった。
特に宝永大噴火によって須走村がほぼ全焼全壊し、農業が壊滅的な打撃を受けると御師などの富士登山関連に依拠する側面が強まった。
これを統制するために寛延2年(1749年)に浅間神社の神主と小田原藩の主導で既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、彼らのみが御師として神職待遇を受ける事が認められた。

境内にある富士講の記念碑
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記念資料館

2007年(平成19年)、御鎮座1200年の佳節を迎え、記念事業の一環として社務所2階には富士講や社宝等を展示する記念資料館が併設された。

天然記念物の木

ハルニレの巨木 – 静岡県天然記念物に指定
東口 ハルニレ

根上がりモミの木 – 小山町天然記念物に指定
東口 モミの木

エゾヤマザクラ – 静岡県天然記念物に指定
東口 さくら

狛犬

「獅子の子落とし」を模する富士塚の狛犬(阿形)
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信しげの滝

富士講の信者が神社を詣でる際に、滝壺の水で身を清めたという。
正面鳥居の左わきにある。富士山の湧水が集まって流れる精進川から引き込まれた水が、神社の境内向かって右側の林の中の水路を通り、小さな滝となって流れ落ちている。
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須山浅間神社

富士山南口の起点となる浅間神社
須山浅間神社

概要

富士山の南麓、須山口登山道の起点となる神社である。
御神木をはじめ、スギの巨木に覆われており、神聖な雰囲気に包まれている。
世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産
須山浅間神社の御神木

基本情報

◆所在地 静岡県裾野市須山柳沢722
◆公式ホームページ http://shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4403099
◆社格等
旧郷社
◆創建 神代とされる
◆札所等 –

祭神

木花咲耶姫命

エピソード

須山口

道興の『廻国雑記』の記録(以下)から、文明18年(1486年)には須山口が存在していたことが確認されている。
「すはま口といふ所より冨士のふもとに至りて、雪をかき分て、よそにみし冨士の白雪けふ分ぬ 心のみちを神にまかせて」

須山口は、1707年の宝永大噴火で甚大な被害を被り、一部ルートの変更を余儀なくされ、完全に復興するに至ったのは1780年のことであった。
登山道は、須山浅間神社が管理を行っていた。

1883 年に御殿場口登山道が拓かれたことなどにより、須山浅間神社を訪れる道者は次第に減少し、現在に至っている。

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村山浅間神社

富士山修験信仰の中心 
村山浅間神社

概要

富士山村山口登山道の要所に鎮座。
富士修験の祖「末代」が堂舎を構えた富士山修験信仰の中心。
元は富士山興法寺を構成する1つであり、富士山に対する神仏習合の地として発展した。
世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産。

基本情報

◆所在地 静岡県富士宮市村山字水神1151
◆公式ホームページ http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/fujisan/llti2b0000001lrf.html
◆社格等
旧県社
元浅間大社摂社
◆創建 伝・孝昭天皇2年
◆札所等 –

祭神

主祭神
木花開耶姫

配神
木花開耶姫(中座)
大山祗命(左座)
彦火火出見命(左座)
瓊々杵命(左座)
天照大神(右座)
伊弉諾尊(右座)
伊弉冉尊(右座)

エピソード

創建

孝昭天皇2年に富士山中腹の水精ケ岳に創建 
崇神天皇朝に神領地を賜る。
応神天皇朝に社殿修造。
大宝元年(701年)に現在地へ遷座。(社伝)

修験信仰

中世になると、富士修験の祖「末代上人」が富士山頂に大日寺を建て富士山修験道の基礎を築き、当社の境内地に堂舎を構えた。
その後、末代の流れを汲む「頼尊」が村山に富士山興法寺を開き、富士山修験道「村山修験」の拠点となり、富士山に対する神仏習合の地として発展した。
14世紀初めには修験者による組織的登山が広まると、1429年には村山に「発心門」が建立された。

発心門・・・修験道において、山上の聖地に至る間に発心・修行・等覚・妙覚の4つの門を設け、それらを通り抜けることによって悟りが開かれると説かれた「四門修行」の最初の入口。

現在でも境内には大日如来を祀る大日堂(旧興法寺本堂)が本殿に並び立つ等、神仏習合時代の形態を留めている。

その後、15世紀後半に、聖護院門跡の「道興」が村山を訪れ、村山修験は聖護院本山派に属することになった。
江戸時代後期に入ると村山修験は衰退していき、神仏分離令が決定的となって事実上廃されることとなったが、聖護院との関係は現在も続いており、7月1日の富士山開山祭では聖護院の修験者が中心となり、村山浅間神社にて護摩焚きを行っている。

大日如来坐像
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武将の崇敬

駿河国を領した今川氏も深く崇敬するとともに、強く介入した。
天文2年(1533年)と同4年に氏輝が神領を安堵して山内諸末社のの賽銭を領することを許し、義元は職員を補任し、山内の法度を定めるなど殆ど今川家直轄の姿を示していた。
豊臣秀吉が天下を統一すると村山郷内に神領75石を安堵した。
江戸時代には将軍家から94石5斗の朱印領が寄せられ、高松藩主松平家を始めとする大名や旗本等も代参を遣わして寄進、祈祷をなすなど武家による崇敬も盛んで、また社殿の修造には九条関白家を始めとする公家衆からの寄進があった。それとともに諸国からの修験者も蝟集し、その勢いは浅間本宮大社と拮抗する程であった。

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